創造のからくり
友達が、
以前、とってもしつこい皮膚病を治した
という話を聞かせてくれた。
歯がね、銀歯だから駄目だって思って、
銀歯を全部セラミックに変えて、
そしたら、すっかり皮膚病が治っちゃったんだって。
(銀歯がどうこうという内容ではないので、
誤解のないように)
信じたから、治った。
銀歯が悪い → 銀歯が無ければ良い → 銀歯を取る → 治る
これを信じたから、治った。
それが、この世の創造のからくり。
例えば銀歯ではなく、食べ物を変えたとしても、
友達の皮膚病は、たぶん治った。
心から信じたならば。
そして、もっと信じがたいことを言うと、
信じたから治った、というのは、ただのストーリーで、
信じたことと、治ったこと
このふたつには、まったくつながりがないみたい。
ほんとうは、ただ、整えば、治る。
整うのは、全世界、全宇宙との調和。
銀歯を取り除けば治ると信じたとき、
彼女は光りを見、
その光によって彼女の精神は、とても安らいだ。
安らぎ、それは調和……。
銀歯がなければ治ると信じる
~ 銀歯が無ければ当然治ると知っている
~ 銀歯が無ければ治っているのが当たり前
~ 銀歯が無ければ皮膚病じゃなかった
~ なんだそうかぁ
~ 安心
信じる、それは安らぎ、そして調和。
それが創造のからくり。
でもね、ここのこの「銀歯」って、ほんとうに意味ある?
~ 当然治ると知っている
~ 治っているのが当たり前
~ 皮膚病じゃなかった
~ なんだそうかぁ
~ 安心
これならば、どうよ。
悪者を創り出す必要なんかないじゃないか。
安らぐために、戦う相手を見つける必要はないってこと。
治す
それは、悪いものを削除することではないということ。
たとえば人生が良くなることも、
何か悪いものを、自分の人生から削除することではなく、
(人とか、物とか、居場所とか)
ただ宇宙の調和を感じ、整うこと = 安らぐこと。
ただ、安らぐことは、思考にとってはとても難しいらしい。
何かをしなければならないと思っている思考、
何かができると思っている思考、
何かができなければ、存在価値が無いと思っている思考、
そんな思考が、悪いものをでっち上げ、
努力して、排除して、存在意義を得る。
弱い私は、思考に乗っ取られ、
安らぐために、
何か悪ものをみつけ、それを取り除けば良くなると信じて、
取り除く努力をして、
価値? 存在意義?
そんなものをてにいれようとしてきた、
そんな気がします。
(何かを変えようとしたり、変わろうとしたり)
努力の結果、とか
成し遂げた、とか。
でも、
何かが悪い、何かを変えなくちゃ、っていうのは、
人のせいにすることと同じ気がする。
自分の人生は自分で創っている、のであれば、
その生き方とは、かけ離れた、ほど遠い所で生きていたってことになる。
何かを変えようとする努力は、
調和の流れに逆らっている!
悪いものを見つけたり探したりやっつけたりしなくていい、
ただ、今のままで、
何があったって、何が居たって、どんなところだったって、
大丈夫、と安らぐだけでいい、
しあわせになるために、安らぐために、
何かをしなければならないこともないし、
何かができなくたって、いい!
ただ、安らぎで居る。
安らぎで在る。
すべてはうまくいっているのだから。
愛してるよ。