きみを愛している

f:id:towa-nakajyo:20180718151915j:plain

 

きみは、身体を持った『この世の君』を愛している。
きみが思っている以上に、愛している。

だけど、『この世の君』は、
きみ自身が考えている以上に自分を愛していない。

あるがままを許していない、という意味でね。

 

愛していると声をかけて、自分の身体にキスしてみないか。

『この世の君』にとって
身体は愛すべき対象であり、
愛がこの世に姿をもって現れたものだ。

 

自分の身体を愛おしむとき、
『この世の君』は愛される対象であると同時に、
主体的に愛する存在にもなる。
愛される喜びと、愛する喜びを同時に感じるわけだ。

愛している、
自分にそう囁きかけて、
優しくキスをする。
ただ、それだけでいい。


だけど続けていると、
『この世の君』が苦しみだしたね。

愛されるのに値するかどうか、そんなこと検閲し始めるからだ。

 

愛される価値の有無、それが『この世の君』の苦しみを生み始める。

 

自分の身体の体裁、つまり容姿についてとか、
自分の身体のケア状態についてとか、
今までの人生、つまり生き方とか、
性格とか、
判断とか、
考えとか、
行いとか、
それはもうたくさんのことについて、
『この世の君』は検閲を始める。

 

そして、
愛される価値がないかも知れない。
いや、愛される価値などないのだ、きっと、と怖れる。

本当に怖いのは、愛されていない事実ではない。
愛される価値の有無だ。
自分が出した自分への認定書だ。
それを公にすれば、愛を得られないことが確定する。

 

わたしは、
こういう性格で、嫌なところもある、
こういう容姿で、とてもじゃないけど自慢できないし、
ここが気に入らない、というより嫌いだ。
ある時は一生懸命だったけど、
真剣に生きてこなかったような気もする。
あの時どうしてあんなことを言ったのだろう。
あのときのあの行動は後悔している。
Etc.

 

できれば目を背けたい事実、
何よりそれらの事実に、

自分は「不可」のハンコを押している。

そんな自分が愛される価値があるわけがない。

目を瞑って生きていきたい。

 

だけど、
自分に向けた、愛しているという言葉は、
その目を開けと促す。
目を見開いて明らかにせよと呼びかける。
怖れるな、

ぼくはそんなすべてを愛しているのだから、と。

その愛を信じられずに、『この世の君』は怖がる。

あるがままの自分を許し愛することに、
きみが思う以上に、
『この世の君』は抵抗している。

 

 

きみを愛している