本当のわたしを生きる 詳細版 ①

第一章  わたしとは何か

 

1. 頭の中の声

 

頭の中は賑やかだ。

というよりも、うるさい。

あなたは気付いていないだろうけれど。

 

ひとり淡々と、無言で何かをやっていた、はず。

 

はずなのに、「今」ハッと気づくと、

脳みそからこぼれ落ちんばかりの何かが、

ごちゃごちゃと会話しあっていることに気付く。

 

この文章を読んでいる今も、浮かんできている。

浮かんでは消えている。

だけど、その中のひとつをつかんだとき、

あなたの目は文字を追っているけれど、意味を理解できなくなる、

ということが起こる。

 

頭の中の声、

なんだ。これは?

 

何かに集中していると思っている時でさえ、そうだ。

 

今、友人の話を聞いているわたし。 ――ほんとうに?

 

友人の語る言葉の間に、―― わたしの思考が入り交じっているのを知る。

会話の内容についての、―― 何かについて何か思っている。

語っている友人についての、―― 何かについて考えている。

まったくここではないどこか他のことについて、―― 考えている。

 

―― ああ、お昼ごはんにはオムライスが食べたいな。

 

この頭の中の声に、運よく気付いたときには、

(人の話を聞いていないことに気付くだけだけど)

あっ! と気付いて友人の話に戻ることができる。

多くの場合、そうやって戻っていって、会話は成立する。

本当は、半分しか成立していないけれど。

 

だけど、まったく戻らない時がある。

「ちょっと、聞いてる?」と言われて、―― 自分が聞いていないことに気付く。

「何考えてるのよ」と言われて、―― 自分が他のことを考えていたことに気付く。

 

ああ、そう言えば、考えていたよ――。

 

 

 

あるときは、食器を洗っているわたし。 ――ほんとうに?

 

コップを洗いながら、―― 今日あの人に言われた嫌なことについて考えている。

お皿をすすぎながら、―― こう言い返せばよかった、と後悔している。

スプーンを洗いながら、―― 明日子供が学校に提出する書類を書かなければ……。

 

ああ、旦那が皿洗いか、書類書きか、どっちか手伝ってくれればいいのに―― 。

 

ガチャンと音がして、はっと気づく。

あ、お皿が欠けている。 もうっ!! なんてことよ。

イライラした気持ちが、さらに増す。

 

こんなふうに、わたしたちの頭の中の声は気付かないうちに起こっている。

 

 

2. わたしとは、頭の中の声からできているハリボテ

 

あなたが「わたし」と考えているものは、

この「頭の中の声」の中から、あなたが「つかんで貼り付けたものの集積」だ。

(つかむ=強く強く意識して見つめて目を逸らさないこと)

 

それをこれから、説明してみよう。

 

まず、ちょっと「あの人」を思い浮かべてみよう。

ええ、そう、あなたの頭に思い浮かぶ誰でもかまわない。

 

「あの人」が誰か、あなたの中に存在する「あの人」の本質を

あなたは語れるだろうか。

 

そう「あの人」は、

○○を持っている、

○○な家に住んでいる、 ○○町に住んでいる

こんなことをした人、あんなことをしている人

こんなことを言った……、

こういう性格だ、

そして、

たぶんこんな風に考えている、もあるかも。

 

述べられたことをじっと見てみると、すべて変化することだ、とわかるだろう。

 

こういう性格だということさえ、変わる可能性があるし、

例えばあなたではない人が「あの人」を見た場合、

ちがう答えになることもあるだろう。

 

それに、もしあなたがいつか人生の師に出会い、考え方が変わったとき、

目の前のあの人は全くの別人にさえなるだろう。

 

ではほんとうの「あの人」とは誰なのだろうか。

 

何かを持っていたり、何かをしていたり、何かを言ったり、

ある性格だったり性質だったり、

何かを成したり、

(あの人が何かを創ったというのは、あの人を表すかもしれないが、

 作ったものが失われた時、それは終わる)

 

それらがその人の本質ではなく、今この瞬間においての、

あなたが貼ったレッテル、ラベル、証票でしかないことが分かるだろうか。

 

まったく同じことが、あなたやわたしにも言える。

人から言われることは、私じゃないわ、とあなたは思うかもしれない。

でもきっと「あの人」もそう言うだろう……。

 

あなたも、自分に貼ったレッテル、ラベル、証票で「私自身」を認識しているし、

あの人も、あなたを、あの人の貼ったレッテル、ラベル、証票で認識している。

 

これらのラベルやレッテル、証票も、

元を正せば、頭の中の声である。

 

 

さて、では、あなたはなぜ、ラベルやレッテルなど、

「頭の中の声」の中から「つかんで貼り付けたものの集積」を

「わたし」と考えてしまうのだろうか。

 

それは、ひとことで言うと、癖のようなものだ。

頭の中の声(思考)をつかむ癖。

もともと、生まれ落ちた瞬間からしばらくの間、

私たちは「つかんで貼り付けたものの集積」ではなかった。

 

まず、私たちは、自分と第三者を意識し始める。

「私がママよ」「私がパパだよ」が、始まりだ。

そして、出来上がりつつある「私」という存在に、親の感想や意見をペタペタと貼り、

その後は幼稚園や学校で「あなたって~~よね」と言われた言葉をペタペタと貼り、

さらに社会に出て――、上司や同僚や部下からの評価をペタペタと貼り、

そんなことを繰り返しながら、

頑丈で巨大なハリボテを創り上げてきた。

 

例えば、

「きちんと服を着なさい」 と言われ 

→ だらしない子という認識をペタペタと貼ることもある。

 

「早くしなさい」 と言われ 

→ のろまな子という認識をペタペタと貼ることもある。

 

「まだ自分の名前も漢字で書けないの?」 と言われ

→ 人よりできないことがある子という認識をペタペタと貼ることもある。

 

「おまえ、この色変だろ」と絵をからかわれ 

→ 自分は変なところがある子という認識をペタペタと貼ることもある。

 

などを、無意識に、あるいは強烈な印象で受け入れてしまい、自分として貼り付け、

貼り付けたレッテルやラベルを、自分そのものだと思い込んでしまう。

 

それに加えて、生きている間に、

男の子とは、女の子とは、○○なものだ、に始まり、

教師とは、とか、友達とは、とか、世間とは、とか、

人としてこうでなければならない、とか、

○○すると、こうなる、とか、

○○は、良くないことだ、とか、

赤信号では止まらなければならない、とか

様々な教えや法則や経験則をわたしの考え(観念や概念、信念)として、

ペタペタとハリボテに貼り付けていく。

 

これらは、あなたの「外」から聞こえてきたと考えられるけれど、

すべて頭の中の声(思考)の賜物だ。

 

これらのものが、あなたというハリボテの原料となる。

 

 

ハリボテで生きる間、

ハリボテの目を通して現実を見たり、ハリボテの思考で判断するため、

ハリボテの価値観に合う現実が醸し出すフィーリングを経験し、感じる。

そしてハリボテは、似たような認識を強化して、延々と巨大化し続けていく。

 

今のあなたがハリボテだという証拠を探す必要はない。

ハリボテだと分かるだけでいい。

ハリボテのあなた――、と聞いて、今頭に浮かぶすべてが

ハリボテだから。

 

京都の安井金毘羅宮の縁切り縁結び碑をご存知だろうか。

まさにこんな感じ。

このように、あなたが縁を切りたいことがペタペタと貼られ、

巨大になったハリボテが、あなただ。

 

そして、あなたが今「つかんで貼り付けたものの集積」は、

好も悪しもすべて、ほんとうはあなたではない。

すべて、外からの何らかの意見や感想、

あなたが生きようとしている「ほんとうの私」ではない。

 

ほんとうは縁を切ってしまいたいと思っているし、縁を切って差し障りもない。

悪いことも良いことも……。

 

エゴは、「良いこと」は手放したくないと考える。

でも、外からもらった賞賛が、苦しみの元になることは多々あることだろう。

頑張って褒められると、頑張り続ける 

    → 頑張らないと認められないという信念。

 

良い子ねと褒められると、良い子でなければならない 

    → 悪いことを考えることさえ自分を否定する。

など、数え上げればきりが無い。

 

良いことであれ悪いことであれ、外からのものであれ、自分に湧き起こったことであれ、

わたしとは、「つかんで貼り付けたものの集積」で出来たハリボテだと、

しっかり認識することだ。

 

ハリボテとは元々、終わることなく流れ続ける「頭の中の声」(思考)である。

 

 

 詳細版②へつづく